No.144カザフスタン⑥ー旧ソ連強制収容所・カルラグーカラガンダ

—前回までのあらすじ—

カザフスタンの首都アスタナを発った私が向かうはカラガンダ。夕方発の列車に乗って4時間、睡眠を取って向かうはずだった。そこで待ち受けていたのはカザフスタン人の子供2人。彼らと戯れ気づけばカラガンダに到着していたのであった。


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おいでやす〜。

はじめに

えーーーーーー。29歳になりました。なってしまいました。とうとう来てしまいました。去年は「28歳かー30歳近いなーハハハ」とか思ってたんですけど。やばくないですか?こんなハラハラするもんなんですな。なんかマジで戦々恐々してます。

ちょうど28歳最後を28カ国目のセルビアで過ごすことができました。ポルトガル人の高校の先生とともに。ニシュという街自体正直楽しめる部分はかなり少ないと思いました。周りに山とかあるからそういうの好きな人にはいいのかな。

んで、この街の1番の見どころが「スカルタワー」そう、骸骨です。教会の中にある骸骨見て自分の誕生日祝いました。なんて素敵な誕生日になったのでしょうか。今年はどんな一年になるのでしょう。あーなんか悲しい。笑

「カルラグ」旧ソ連強制収容施設へ、カラガンダからドリンカ村へ向かう。

前回はアスタナから4時間かけて「カラガンダ」という街に到着しました。

それはそれは壮絶な戦いを繰り広げながら、ガキンチョ2人を制してカラガンダに到着したわけです。
寝ようと思っていたのに寝れないまま、それでも、カザフスタンで1番の思い出のようなものができて移動できたのでした。

この子たちは今どこで何をしているんだろうね。元気に育ってくれよ。

No.143カザフスタン⑤ーアスタナから鉄道でカラガンダへ!車両で大乱闘ーアスタナ

ここカラガンダに来た理由は「旧ソ連強制収容施設・カルラグ」があるからでした。 私のじいちゃんに関係がある場所だったのです。

今回はカルラグに行った際の話になります。

カラガンダ駅前のバス停にやって参りました。

旧ソ連強制収容施設・カルラグはこのカラガンダから近くのドリンカ村という場所にあります。

ドリンカはここね。

カラガンダからドリンカ村への行き方。

バス停で121番のバスを待ちます。

私が待ったバス停はこのあたりですが、「2GIS」ってアプリ使えばルートにあるバス停どこでも大丈夫だと思います。駅前からバスは出ています。

バス停で待っている時のお気に入りの写真。
このこの口角の上がり方が可愛かった。ハフハフしてた。

やがて、121番のバスがやってきました。人がすでにたくさん乗っていた。
駅前から乗った方がいいかもしれません。

料金は50テンゲ(約14円)
これだからバスは大好き。

ドリンカ村に向かう121番のバスは「シャフチンスク」が終点。
その前にドリンカ村の入り口前のバス停「フタラーヤ・シャーフタ」というバス停で降ります。

私は運転手に「フタラーヤ・シャーフタ!ドリンカ!」って言って理解してもらえました。

ということで、降りた場所はこんな場所です。

バス停ね。相変わらずの広々とした感じ。

ここから先は3kmないほどの距離になります。タクシーに乗るか歩いていくかになりますけど私は歩いて行きました。自分の場合3kmは絶対歩きます。ということで行きましょう。

 

ドリンカ村から歩く

ドリンカ村の入り口です。もう入り口から閑散としてます。
人の気配が全然ありません。

この道でいいのだろうかという道を進んでいきます。

お牛さんやお馬さんなど家畜が現れました。
そして飼い主が先導していました。

カラガンダは意外とお店があったりで中心地は拓けていたましたが、ちょっと離れるとこの有様です。それはアスタナでも同じことが言えます。
土地が有り余っています。カザフスタン。

ドリンカ村に入り始めました。漂う田舎感。

すれ違う人にはジロジロ見られ、
すれ違う犬には吠えられ、
すれ違う車には埃をかけられ、
これが友達のいない寂しさなのでしょうか。

少し肌寒い感じも相まってです。

年期入った車とおばちゃん。寂れた感じ。

でもこういう風景好きです。

なんか雑誌で見るあのレトロな雰囲気好きだからかもしれません。

それにしても人の気配があまりしません。

 

この建物なんかももはやお化け屋敷感満載です。

周りの家の雰囲気を見ているとむしろこの家の持ち主はお金持ちだったんじゃないでしょうか。

 

相変わらず犬には吠えられ続けます。しかもでかすぎ。ケルベロス。

 

旧ソ連強制収容所・カルラグ到着

そんなこんなで到着しました。共産党の赤い星が建物の真ん中にありますね。

「旧ソ連強制収容所・カルラグ」

小さな村に突然現れました。カラガンダに来た理由はここ。

えーーー、どこから話そう。

うちの父方のじいちゃん、なんか海部俊樹前首相の賞状持っていたんですね。

「あれ大工だったんだけどなんかすごい事したのかな?」

読んでみると

「あなたの戦後強制抑留中の御苦労に対し銀杯を贈り衷心より慰労します。内閣総理大臣 海部俊樹」

 

 

・・・・。

 

中高生くらいの時の事だったからなんだかよくわからんが、じいちゃん戦争経験してるしその事なんだろうなって。

親父にこの事聞くと

親父親父(親父の親父=じいちゃん)はシベリアに行って酷い環境下働かせられた。でも、詳しくは教えてくれない。友達はたくさん死んだらしい。」

実の息子である親父もよく知らない話らしい。とにかく何も話してくれない。そんな雰囲気になったそうだ。

シベリア抑留。そんな言葉は学校の授業で聞いたことがあった。

「これがおそらくじいちゃんが働いてた時の話なんだろうな。」

学生時代、今の様にここまで外国のことに興味がなかったし、真面目な学生じゃなかったから正直なんとなく聞いていたくらいだった。でも頭の片隅には残っていた。

入り口の前には日本語の慰霊碑があった。やっぱりだ。

強制労働をさせられていたのは日本人だけではない、ドイツやその他敗戦国の人たちが働いていた様です。

ここに決めようと思ったのは、キルギスの南旅館でいつもの様に夕食後みんなで夜遅くまで話していた時のことである。私たちはくだらない下ネタから自分の身に降りかかった可笑しな事件F氏の今まであった面白い話など本当に幅広く好き勝手話していたのである。

専ら、旧ソ連独立国家の話はよく出ていた。キルギスは元よりグルジア(ジョージア)、アゼルバイジャン、モルドバ、ウクライナ。

そんな話の中でどんな流れの中でなったのかわからない。でも、ソ連による強制労働の話になった。

そんでもってF氏は「まあ、ウズベキスタンにもカザフスタンにも強制労働をさせられて日本人墓地があるんですよ。」

ウズベキスタンにあるのは聞いたことがあった。そこから話は色々聞いた。確かに調べてみるとウズベキスタンの日本人墓地などの情報はたくさん出てくる。

F氏「カザフスタンに旧ソ連強制収容所があるので、行ったほうがいいです。カラガンダというところにあります。」

私はここに行くことを決めた。じいちゃんに関係あると思った時、外してはいけない場所だと思ったからだ。

旅行しているとたくさんの歴史に触れる、けど全然わかってない。本気で調べると何日もかかってしまう。

毎日移動しては新しい場所に行くのでどうしても仮初めの知識で見て驚いて「すごい。そうなんだ。」時に「ひどい。」

そんな子供じみた感想で終わることもしばしば。

ここだってそう。深くは理解できていないんだろう。

 

だからと言って、「何も語ってはいけない」訳ではない。こういう博物館は知らない人に知ってもらうためにあるから。

これをきっかけに知ってもらうことがだ大切。そういうことだと思う。

 

ここの博物館は非常に不気味な音楽でわざわざ恐怖心を助長せんとばかりのBGMが流れていた。
まるでホラーゲームの「バイオハザード」の街の音の様な。

写真ではここで起きた惨事が写真をとともに語られていた。お客さんはほとんどいなかった。

当時の資料がかなりの数揃っている。基本的に博物館を誘導するガイドさんがいて、お金払えばさらに説明もしてくれる様だったが自分はつけなかった。自分のペースで見たかったから。

女性職員が多かったイメージ。

この施設では当時働いていた職員の写真が多かった。

 

 

カルラグについて

調べてみると「ラーゲリ」というのがロシア語で「強制収容所」を意味することが多い様だ。(ラーゲリについてwiki

ただ、ラーゲリは「強制収容所」の施設の名前。主にグラグという言葉が強制収容所の意味合いとして使われていたそうだ。

強制収容所は、十月革命でソビエト政府を成立させたウラジーミル・レーニンの下で政府機関によって作られた。この用語はまた、ヨシフ・スターリン時代の大粛清以降も含めて、ソビエト連邦内の強制労働収容所を指すのにも一般的に用いられている。wiki より

グラグ(Gulag)ですが、カラガンダ州にあったのでカルラグ(Karlag)と呼ばれた。

ここだけの名前だということです。

スターリンはこの中央アジアの旅でよく見かけました。

とりわけスターリン政権は政治的弾圧を強化。反政府派は弾圧を受け強制収容所に収容された様だ。

 

じいちゃんが強制収容所で収容されたかはよくわからないが、シベリアで厳しい環境下で働かされていたということだからグラグにいたのかもしれない。

私はおじいちゃんの明るい笑顔しか知らない。友人を多く失ったという彼の人生で重く深いであろう傷など知る由もなかったのだ。 

世界各地から追放者や捕虜が送り込まれたそうです。カルラグが存在した1932年から1961年までの30年間に、その数は延べ80万人。
多くが石炭の採掘、土木建設などの重労働に当たった様だ。

鉄道の建設など当時の重要産業であろう重労働は捕虜などが重要だったのだろう。

 

カルラグ内の人形が生み出すリアルな雰囲気

突然、人がいてびっくりした、、

とよく見たら人形だった。

2階構造で博物館は展示されていて、最初は資料がメインだが階が変わると人形が当時の現状を表現していたのだ。

人形が妙にリアルで変な臨場感が感じれた。

医務室。

収容者の取調室の様なものだろうか。

  

 

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた

wikiより

労働力の方が必要な時だでもあったのだろう。

ソ連の兵士。

収容者の寝床であろうか。

重々しい雰囲気はずっと続く。

下の階はこんな感じの通路になっていました。

 

  

この事実に関係する絵が展示されていた。

最後は所長室の様な場所。

奥の人も人形です。

ちなみに、かなり調べたカンボジアのポルポト政権時の強制収容所は元をたどるとここソ連の強制収容所に行き着くんです。

ソ連を模倣した中国。中国・毛沢東の思想に傾倒したポルポトは結果、強制収容所で知識人を大量殺戮して社会が崩壊しまいしました。

No.55カンボジア②プノンペン—キリングフィールド・風化—

No.56カンボジア③プノンペン—S21・rain—

No.53ベトナム⑭ホーチミン—peace—

ベトナム戦争はカンボジア・ポルポト政権と関係あるので引用しときました。

カルラグの歴史はその後も長い間つつみ隠されてきました。
1961年、カルラグの閉鎖に伴って釈放された人々は「今後25年間、カルラグのことをいっさい他言しない」という誓約書に署名を強要されました。

この事実を喋ってはいけない、喋れない。
共産党の洗脳にかかる人もたくさんいたそうです。   

   

じいちゃんはここにいたわけではありませんが、何が起きたかということがすこーーーーーしだけでも理解できたかもしれない。今の平和な日本は先祖の先代の方々のおかげで成り立っていて、改めて自分の生きる時代がどれだけ幸せなことなのかバカなりに実感できました。

重い空気、カラガンダにきて目的を果たせた様な気がします。

資料やネットで情報は得れるけど、慰霊碑を直で見たり今自分にしかできない方法でこの歴史を知れること。旅してて重要なことだと思います。

じいちゃんはもういないし、ここに行った話なんてできないし、そもそもじいちゃんはこんなことはもう思い出したくもないのだろうけど、知ることだけでもできてよかった。

 

カザフスタン人の観光客の家族であろうか?
帰る際にこの建物の前で笑顔で記念撮影をしていて、なんかカンボジアのキリングフィールドにいたときと同じ様な感覚に見舞われたのでした。

 

 


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